
看護師・中村がクライシス・プランの実践を軸に、看護のこと(時々それ以外も?)を自由に綴るエッセイ第8弾!
『ウスバカゲロウ』を読み解く鍵としての“光”
3月25日に発売されたMr.Childrenのニューアルバム『産声』を聴きました。
第5回の記事では「Mr.Childrenの新曲を聴くのが怖い」などと悶えのたうち回っていましたが、結果、今回もちゃんと向き合って聴きました。
どこか集中力が欠如した今日この頃にも関わらず、このアルバムは「アルバムとして」ちゃんと通して聴くことに意義のある作品と感じました。
今回は、その中でも特に印象に残った「ウスバカゲロウ」という曲について書いてみようと思います。
この曲、一見すると、主人公のごく個人的な後悔や記憶を描いた楽曲のようにも聴こえますが、読み解いていくと、そこには「リカバリー」というテーマが流れているように感じました。
▼ Mr.Children「ウスバカゲロウ」
まず、曲のタイトルにもなっている「ウスバカゲロウ」は、幼虫のアリジゴクとして2〜3年を砂の中で過ごし、成虫になってからは数週間しか生きられないため、よく“儚いものの代名詞”とされます。夜行性の昆虫で、街灯などの光に向かって薄い透明な羽で弱々しく飛ぶ姿を目にしたことのある人もいるのではないかと思います。
この曲にも、歌詞の至るところに象徴的に「光」に関する表現が登場します。
サングラス、夏、煌めき、真夜中、残像、朝焼け、透明、夕暮れ、光に満ちた場所
この曲の中に登場する「光」は必ずしもポジティブなものとしての象徴ではなく、扱い方によっては人を苦しめるものとしても描かれています。詳しく見ていきましょう。
大阪市、寝屋川市、守口市、
門真市、大東市、枚方市全域対象
“精神科に特化”した
訪問看護ステーション
「くるみ」
平日・土曜・祝日 9:00〜18:00
【日曜・お盆・年末年始休み】
※訪問は20時まで
対応させていただいております。
光にさらされるということ(1番Aメロ〜サビ)
大事にしてたサングラスを
失くして 見つかんなくて
君といた夏の記憶が
また少し萎んだ
曲の冒頭はこのような歌詞から始まります。サングラスは強すぎる光を調整するためのもの。つまり、それを失うということは、光を調整する手段を失うということです。
主人公は、強すぎる光によって、強い光の象徴とも言える「夏」を思い出すも、その記憶は「萎んで」しまいます。強い光は細部を消してしまうことがあるように、繊細だったはずの記憶の輪郭を保てなくしてしまう、ということと思います。
大抵こんな風に
身近にあったタカラモノをどっかに放っぽって
遥か遠くで光る
煌めきに見惚れ 追っかけて
失って
ここでは、過去を振り返る形で「光」との関係がより具体的に語られます。“煌めき”は、一見すると魅力的な光のようですが、それは同時に、距離があるからこそ強く輝いて見えている危うさを孕んだ光でもあります。
主人公は「見惚れる」という受動的な状態に置かれています。光に引き寄せられてしまった結果として「失って」しまう。これは、光に対する距離の取り方を誤った経験として描かれているように感じられます。
この経験を踏まえると、サングラスは単なる小道具ではなく、過剰な光から自分を守るものであり、同時に、世界との適切な距離を保つための手段でもあった。それを「失くした」ということは、過去に学んだはずのバランスの取り方を失い再び無防備に光にさらされる状態に戻ってしまった、ということでもあるでしょう。
真夜中に膨らんだ幾つもの後悔を
君の残像に重ね悶えながら
寂しさに包まってる
やがて来る朝焼けにまた叩き起こされて
枝につかまるウスバカゲロウ
僕は今それのよう
透明の羽たたんでる
続く1番のサビでは「残像」という言葉が現れます。残像は強い光を見たあと目を逸らしたときに残るもの。つまり「ちゃんと見きれなかった光の痕跡」という風に捉えられます。だからこそ、主人公は「思い出している」のではなく「重ねてしまう」。自分の意思で取り出しているというよりも、残像の側から立ち上がってきて、それに巻き込まれていくような感覚があります。
そして、朝焼けという本来は美しいはずの光が、主人公の意思とは関係なく侵入してくるものとして描かれています。優しく照らすのではなく、強制的に覚醒させる光。
さらに興味深いのは、そのあとに続く「枝につかまるウスバカゲロウ/僕は今それのよう」という比喩です。ウスバカゲロウは夜行性で、光に満ちた時間帯には活動せず、じっとしている存在です。その生態と重ねることで、主人公は「光の中で動ける状態にはない」という自己認識を示しているようにも読めます。
停滞の中で固定されていくもの(2番Aメロ〜サビ〜Cメロ)
マグカップに作ったスープを流し込む
空腹をしのぐだけの食事で不満はない
2番の冒頭はこのような歌詞から始まります。このフレーズから、朝が来て明るい時間帯に入ったことが予想できますが、直接時間帯を示す表現は出てきません。この曖昧さから、時間としては“昼に近いはずの明るい時間”にいるにもかかわらず、その光が十分に機能していない状態が描かれているように感じられます。
また、この部分はマズローの5段階欲求でいうと、最下層の生理的欲求をなんとか満たしている状態と捉えられます。ここには、主体的に何かを味わう余裕はありません。この無機質な摂取のあり方は、そのままこの時点での主人公の在り方を示しているようにも見えます。
もちろん今だって
子供じみた価値観を引きずったまま暮らして
君から見た景色が
どんなものか想像もせずに
ここでは、2番の冒頭で描かれていた「最低限を維持している生活」に対して、その停滞の理由が言語化されています。
「今だって」「引きずる」という言葉からは、主人公の価値観が更新されないまま持ち続けられている状態が示されています。本来であれば、経験を通して少しずつ書き換えられていくはずのものが、過去のまま固定されている。
また、相手の視点に立つことができないというよりも、そこに意識を向ける余白が持てていない状態とも言えるかもしれません。
薔薇色だった日々はあまりにも簡単に
ほんの小さなボタンの掛け違いから
粉々に壊れた
耳を塞ぎたいような言葉を投げ合って
「でも自分は間違っていない」と思わなきゃ
心を守る手立てがなくて
2番のサビでは、これまで持続していた停滞やズレが、関係性の中で一気に顕在化していきます。きっかけ自体は決定的な出来事ではなく、些細な相違の積み重ねが臨界点を越えた瞬間に、関係が「粉々に壊れた」と感じられている。その脆さの認識がこの一連の出来事をより強いものにしているように思えます。
そして「でも自分は間違っていない」と思わなきゃ、という一行。
ここには、状況を整理する余裕がない中で、自分を守るための最小限の防衛が見て取れます。正しさを主張したいというよりも、そう思っていなければ自分が崩れてしまう。つまり、自己を保つための拠り所、対処がそれしか残っていなかった。
ここでの主人公は、明らかに自己コントロール感を失いつつある状態(クライシス的状態)に置かれていると考えられます。ただし、劇的に崩壊するというよりも、守ろうとする動きと崩れそうになる感覚が同時に存在しているのです。
チャンスは何度でもあったはずだったろう
今思えば分かること
なぜ?何故?あの時
2番サビ後のCメロ、「なぜ?何故?あの時」という反復は、単なる疑問ではなく、答えに辿り着けないままグルグルと回り続ける思考を示しているように感じられます。何が起きたのか、ではなく、なぜ「あの時」できなかったのか。その問いに囚われることで、主人公は現在から過去へと引き戻されていきます。
それでも、羽を開く(サビ)
夕暮れに投げ捨てた音のないメロディを
君の残像に重ね合わせながら
愛しさを味わってる
そっと
これまで主人公は、記憶や残像に巻き込まれ、後悔や寂しさに包まれながら、どこか受け身のままその時間を過ごしていました。しかしここでは、はっきりと能動的な動詞が現れます。「投げ捨てる」「重ね合わせる」「味わう」。
まず、1番で出てきた朝焼けに対して、夕暮れは光が少しずつ失われていく時間です。この時間帯は、夜行性であるウスバカゲロウとも自然に重なり、主人公はようやく自分に合った時間の中に身を置きはじめているようにも見えます。
主人公は、後悔を反芻し続けるのではなく、一度それを自分の手で「投げ捨て」ています。グルグルと考え続けることから、具体的な行動へと移りはじめます。
ここで再び現れる「残像」は、1番のサビにおける残像とは質が異なります。あのときの残像は、強い光を見たあとに目を逸らしたことで残る、受け身の痕跡でしたが、ここでは、その残像に対して主人公の側から働きかけているのです。残像に巻き込まれるのではなく、残像を相手に自分の感情を「重ね合わせ」ていく。
そして何より、「愛しさを味わってる」という表現。2番では、食べるという行為はあくまで生理的欲求を満たすためのものであり、感情はほとんど介在していませんでしたが、ここでは「味わう」という主体的な行動が示され、しかもその対象は「愛しさ」という感情になっている。これは、自分の内側に生まれた感情を初めて主体的に受け止めている状態だと読むことができるでしょう。
状況そのものが大きく変わったわけではないのに、世界の見え方が変わりはじめているのです。
今はまだ
光に満ちた場所に辿り着けないとしても
今日をゆらゆらとよろけながら
懸命に飛び立ちたい
風邪が吹くたび軟な命を揺らしながら
空を泳ぐウスバカゲロウ
僕は今それのよう
透明の羽開いて
転調したあとの最後のサビでは、理想的な状態にはまだ至っていないことを率直に示していますが、同時に重要なのは、この場面が夕暮れに位置しているということです。この曲では真夜中、朝焼け、そして日中に相当する時間を経て、最後に夕暮れが置かれています。つまりここから先に待っているのは、光に満ちた時間ではなく、夜なのです。つまり、現時点で未到達ということだけではなく、時間の流れそのものがそれを困難にしているという有限性の感覚を含んでいるようにも思います。
それにもかかわらず「懸命に飛び立ちたい」と続くことで、光の有無や到達の可能性とは切り離されたかたちで、主体的な行為が選び取られていることが際立ちます。依然として不安定な状態であり「風が吹くたび軟な命を揺らしながら」とあるように外的な揺らぎからも自由ではありません。それでもなお飛び立とうとするその姿は、これまでの受動的なあり方からの明確な変化として捉えることができます。
最後の「透明の羽開いて」という一節は、冒頭のサングラスとの対比として読むことができます。サングラスは強すぎる光から目を守り、世界との距離を調整するためのフィルターでしたが、それを失ったことで主人公は無防備に光にさらされ、透明な羽をたたみながら、残像に悶える過程を辿ってきました。その流れの果てにあるのが、再び光を遮ることでも、適切にコントロールすることでもなく「透明」であること、つまり光をそのまま受け入れることなのです。光に無自覚にさらされることとは異なり、最後は自らの選択としての開かれ方であるという点が、決定的に異なります。
変わるのは、出来事ではなく関わり方
こうして見ると「ウスバカゲロウ」で描かれているのは、光に満ちた場所へと到達する話ではなく、そこに辿り着けない可能性を引き受けたうえで、それでもなお光と関わり続けることを選び取る姿と言えるでしょう。
人は過去を消すことはできないし、状態が劇的に変わるとは限らないけれど、そこにどのような意味を与えるのか、どんな距離で向き合うのかは、変えていくことができる。
これは、まさにリカバリーの本質です。精神科看護の文脈で言えば、「症状がなくなること」や「問題が解決すること」をゴールとするのではなく、「その状態の中でどう生きるか」という意味づけが変化していくプロセスを丁寧に見ていくことの大切さを、この曲は示しているように感じます。
▼ Mr.Children「産声」Teaser
余談:この記事の出発点は“ドラムの違和感”だった
ここまでリカバリーの視点から書いてきましたが、実はこの曲をここまで考えるきっかけになったのは、ドラムに感じた違和感でした。この曲のドラムには度肝を抜かれました。僕自身も過去にドラムをやっていたことがあるので、あの選択をする勇気というか判断というか、とにかく、もう本当に、JENさんのことを心から尊敬してます。
通常、サビは曲の中で最も開かれる場所として、ハイハットやライドシンバルのような上に抜ける音で時間を前に進め、聴き手に「ここがサビだ」と明確に提示することが多いもの。しかし「ウスバカゲロウ」は、1番のサビこそハイハットで刻んでいるものの、2番のサビとラストの転調後のサビでは、その役割をなんとフロアタムに置き換えています。
フロアタムで刻むというのは、音が重たく下に沈み、粒立ちが曖昧で時間が進んでいく感覚が弱くなり、どこか内省的な印象を生みます。音としてはむしろ地味で、いわゆる“サビらしさ”からは距離を取る選択です。
つまり、曲の終盤に向かって盛り上がっていく一般的なJ-POPのドラムのセオリーとは真逆のアプローチが取られている、ということです。この判断は相当難しいはず。僕だったら怖くて転調後はライドシンバルで刻んじゃう。
本文でも触れた通り、2番のサビで主人公は自己コントロール感を失いかけ、かなり不安定な状態にあります。その状態に呼応するように、ドラムは1番サビのハイハットに対して2番サビでは重たいフロアタムで刻む。そしてラストのサビでは、確かに前を向こうとする気配がある(だからこその転調)けれど、完全に状況を抜けたわけではなく、迷いや揺れを抱えたまま羽を開こうとしている。その“同時に存在する状態”を崩さないために、ラストのサビであっても、ハイハットに戻ったりライドシンバルが選ばれることなく、あえてフロアタムが選ばれているのだと考えられます。
このJENさんのドラムはリカバリーの在り方とも重なり、揺らぎを抱えたまま前に進むその現実的な変化を、ドラムが音として支えていると捉えることもできるでしょう。
この“ズレ”があるからこそ「ウスバカゲロウ」はきれいにまとまりすぎず、現実に近い手触りを持った、どこか引っかかり続けるリアルな曲として成立しているのだと思います。