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【CEOコラム】Vol.069 「正論」で、誰かをすり減らしていないか。 – 権利と配慮のあいだで、僕たちが忘れてはいけないこと –

HEROさんシリーズくるみの社長エッセイ

こんにちは。株式会社Make Careの代表取締役CEOであり、訪問看護ステーションくるみでマーケティングを担当している石森寛隆です。XではHEROと名乗っていますので、もしよろしければフォローください。

さて、先日、Xでこんなポストをした。

誰かの権利の行使は、誰かの配慮によって成り立っていることが多い、と言う「事実」
そして、それに慮れないと、その権利がいつしか反発されるようになる。

それがもったいないよね、と思って、ポストしてみた。

ちょっとこのポストについて、補足的なことをコラムに綴ってみようと思う。

1. 「正しいこと」が、なぜ組織を壊すのか

最近、強く感じることがある。
それは、「正しいこと」を言っているはずなのに、なぜか周囲が疲弊し、現場の空気が冷え切っていく場面が増えている、という違和感だ。

「それは私の権利ですから」
「制度上、認められているはずです。」
「契約にないことはできません。」

こうした言葉は、一分の隙もなく正しい。
法的にも、制度的にも、論理的にも、否定のしようがないケースがほとんど。
しかし、その“正しさの使われ方”に触れるたび、僕は胸の奥にざらついた感覚を覚えるようになった。

僕たちは今、「正論」という名の鋭い刃で、無意識のうちに誰かの心を削り取っていないだろうか。

2. 権利は「真空」の中では存在しない

まず明確にしておきたい。
僕は権利そのものを否定するつもりは毛頭ない。
むしろ、必要な人が、心置きなく権利を行使できる社会こそが健全だと思う。
特に医療や福祉の現場において、自己犠牲の上に成り立つ献身はもう限界に来ている。
権利は守られるべきだし、それを主張することを躊躇してはいけない。

ただし、そこには決定的に見落とされている「前提」がある。

権利は、真空の中では存在しないということだ。

どんなに立派な制度や権利であっても、それが機能するためには、必ずその土台となる「場」が必要だ。
現場、人、人間関係、費やされる時間、そしてそこに関わる人の感情。
権利という果実は、こうした泥臭い「人間同士の営み」という土壌があって初めて実を結ぶ。

つまり、あなたが今、行使しているその権利は、決して単体で浮遊しているわけではない。
その権利が成立するために、誰かがシフトを調整し、誰かが電話を一本多くかけ、誰かが自分の予定を後回しにしている。
権利は常に、目に見えない誰かの「負担」とセットで存在しているのだ。

3. 「配慮されている側」に立つという自覚

今、あなたが何かしらの配慮を受けているとする。
それは育児かもしれないし、介護かもしれない。あるいは体調不良や、個人の事情かもしれない。
それは「権利として当然」のことかもしれないし、互助の精神である「お互い様」で成り立っていることかもしれない。

どちらであっても、ひとつだけ残酷なまでに確かなことがある。
その配慮によって、別の誰かの物理的、あるいは精神的な負担が増えている、という事実だ。

急な欠員の穴を埋めるために、昼食を抜いて走っている同僚。

調整の板挟みにあい、頭を下げ続けている上司。

言いたいことを飲み込み、「いいですよ」と笑顔で引き受ける後輩。

これらの負担は、ただ「システム」の中に吸い込まれて見えなくなっているだけで、決して消えてなくなったわけではない。
誰かが、その重みを確実に背負っている。

問題は、その重みに対して、受ける側が「当然」という顔をしてしまった瞬間に起きる。

4. 「当然」という言葉が、想像力のスイッチを切る

「当然だから」という言葉は、思考停止の麻薬だ。
「当然の権利」「ルール通り」「制度の範囲内」。
その言葉を盾にした瞬間、人は周囲を見なくなり、感謝を失い、相手の立場への想像力を放棄する。

「制度があるんだから、現場が回るのは当たり前だ」
もしそう思うのであれば、それはあまりに冷徹な想像力の欠如と言わざるを得ない。

現場を動かしているのは、制度という歯車ではない。感情を持った人間。
「今回は大変だろうけど、彼(彼女)のためなら頑張ろう」
「いつもお世話になっているから、ここは自分が踏ん張ろう」
そうした微かな「善意の積み重ね」が、ギスギスしたルールを潤滑油のように動かしている。

それらすべてをひとまとめにして「当たり前」と呼んでしまったとき、現場の善意は急速に枯渇していく。
「この人のために頑張っても意味がない」と周囲が感じたとき、組織は静かに、しかし確実に崩壊へと向かっていく。

5. 正しくても、信頼されない人がいる理由

私たちは、仕事において「正論」だけで人は動かないことを知っている。
現場を見ていると、時折こんな人に出会う。
言っていることは非の打ち所がない。能力も高い。制度の知識も豊富だ。
しかし、なぜか周囲から信頼されず、孤立していく。

なぜか。
それは、その人が自分が「配慮されている側」にいるという自覚を、これっぽっちも持っていないからだ。

自覚がないから、感謝が生まれない。
感謝がないから、相手の疲弊に気づけない。
気づけないから、さらに「もっと権利を」と要求を重ねる。

結果として、その人は「正しいけれど、誰もついていきたくない人」になってしまう。
仕事は「何を言うか」ではなく「誰が言うか」であり、その「誰」を形作るのは、日々の微細な慮り(おもんばかり)の積み重ねなのだ。

6. 権利を行使する側にこそ、高い「倫理」が必要だ

僕はこう確信している。
倫理やマナーが本当に求められるのは、弱い立場にある人ではなく、むしろ「正当な権利を行使している側」であると。

自分は今、多くの人に支えられている。
自分の不在や制限を、誰かがカバーしてくれている。
この環境は、決して自明の理ではなく、奇跡的なバランスの上に成り立っている。

そう理解した上で、謙虚に権利を使う人と、それを「当然の権利だ」と高圧的に振る舞う人とでは、周囲に与える「納得感」が天と地ほど違う。
前者がいるチームは、困難があっても団結する。後者がいるチームは、誰かが静かに離職していく。

「お互い様」という言葉は、美しい。
しかし、本当の意味での「お互い様」は、双方が相手の負担を想像し、申し訳なさと感謝を抱き合って初めて成立するものだ。
想像力を放棄した「お互い様」は、単なる責任の押し付け合い、あるいは一方通行の搾取にすぎない。

7. 最後に:僕たちが守るべきものは何か

僕たちが守るべきは、権利という「文字」ではない。
その権利を使って、人が幸せに、持続的に働ける「環境」そのものだ。

権利は間違いなく大切。誰もが安心してそれを使えるべき。
しかし、権利を守る社会と、誰かが疲弊し続ける社会を、イコールにしてはいけない。

「自分一人で立っているのではない」
「誰かの配慮と、善意と、そして少しの我慢の上に、今の自分の権利がある」

それを忘れないこと。
「ありがとう」や「すみません」という言葉を、単なる儀礼ではなく、相手の負担への想像力として差し出すこと。

僕は、それを人としての、そしてプロフェッショナルとしての「最低限の姿勢」だと信じている。
株式会社Make Careという場所が、そして僕自身が、常にその想像力を失わずにいたい。

正しさを、誰かを傷つける武器にするのではなく、誰かを支える力に変えるために。

このコラムを読んでくださったあなたが、今日、隣にいる仲間の「見えない負担」に少しだけ目を向けてくれたなら。
それだけで、現場の空気はきっと、ほんの少し温かくなるはずです。

この記事を書いた人

石森寛隆

株式会社 Make Care 代表取締役 CEO

石森 寛隆

Web プロデューサー / Web ディレクター / 起業家

ソフト・オン・デマンドでWeb事業責任者を務めた後、Web制作・アプリ開発会社を起業し10年経営。廃業・自己破産・生活保護を経験し、ザッパラス社長室で事業推進に携わる。その後、中野・濱𦚰とともに精神科訪問看護の事業に参画。2025年7月より株式会社Make CareのCEOとして訪問看護×テクノロジー×マーケティングの挑戦を続けている。

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