前回の記事では、クライシス・プランを単なる「うまくいく/いかない」という結果で評価するのではなく、日々の関わりの中から情報の断片、すなわち「クライシス・プランのピース」を拾い集めていく「プロセス」の大切さについてお伝えしました。クライシス・プランは完成された一枚の書面として存在するものではなく、その人の語りや生活の中から少しずつ形づくられていくものだと僕は捉えています。
一方で、実際の看護の現場では「では具体的にどのように書面を作成すればよいのか」「どのように活用していけばよいのか」といった、いわゆる「ツール(=書面)」としての側面について尋ねられることも少なくありません。こうした問いはとても自然なものであり、プロセスの中で相互理解を深めていくための手段として協働的に書面を作成し言葉にしていくことは、クライシス・プランの重要な要素の一つでもあると考えています。
そのような中で、僕がクライシス・プランを書面として整えていく際に、数ある項目の中でも特に大切にしている部分があります。少し意外に思われるかもしれませんが、それは「クライシス・プランの名前(タイトル)」です。
大阪市、寝屋川市、守口市、 平日・土曜・祝日 9:00〜18:00 ※訪問は20時まで
門真市、大東市、枚方市全域対象“精神科に特化”した
訪問看護ステーション
「くるみ」
【日曜・お盆・年末年始休み】
対応させていただいております。
そもそも「クライシス・プラン」という名称は、専門職にとっては馴染みのある言葉ですが、利用者(患者)さんにとって必ずしも心地よい響きを持つとは限りません。「クライシス」という言葉の語源には「決定する」「選ぶ」「重大な分かれ目」といった意味が含まれています。しかし、一般的には「危機」や「破綻」といったネガティブなイメージが先行しやすい言葉でもあります。そのため、この言葉をどのように受け取るかは、人それぞれのこれまでの体験や文脈に大きく左右されます。
特に、これまでの医療や支援の場において「管理されている」「監視されている」と感じるような体験をしてきた方にとってはどうでしょうか。
看護師が訪問するたびに「クライシス」という言葉を繰り返し耳にすることは「また自分は問題として扱われているのではないか」「何かをコントロールされるのではないか」といった感覚を呼び起こす可能性があります。それは単なる言葉の問題にとどまらず、その人にとっては強い心理的ストレス、すなわち侵襲となり得るものです。
実際に、僕が関わってきた利用者さんの中にも「クライシスと言われるのが嫌だからプランを使いたくない」と語り、そのことをきっかけに支援から距離を置くようになってしまった方がいました。
クライシス・プランは本来その人の生活や人生を支えるためのものですが、その入り口である「言葉」がその人にとって受け入れがたいものであれば、そこに関係性の断絶が生まれてしまうこともあるのです。
こうした経験から、僕は改めて「言葉が持つ力」について考えるようになりました。どのような言葉で呼ぶかは単なる表現の違いではなく、その人をどのように理解しどのような関係性で関わろうとしているのかという姿勢そのものを映し出すものだと感じています。
だからこそ、僕はクライシス・プランを「その人がつけた名前で呼ぶ」ことは極めて重要な看護実践であると考えています。それは、言葉を通してその人の主体性を守りその人の人生に寄り添うための、ささやかでありながら本質的な関わりの一つだと感じています。

▼一般的なクライシス・プランの書面。左上にプランの名前を書く欄がある

僕には、クライシス・プランのタイトルに関して、自分自身に課している一つの「作法」があります。それは、本人が納得のいく名前をつけたら、以降は「クライシス・プラン」とは呼ばず本人がつけた名前で呼び続けるということです。
例えば、本人が自分のプランを「おだやかプラン」と名付けたのであれば、次回の訪問からは「『おだやかプラン』を一緒に確認しましょう」などと声をかけます。「くるみプラン」であれば、「『くるみプラン』の調子はどうですか?」といった具合です。その人が選んだ言葉をそのまま日常の関わりの中で使い続けていくことを、僕は意識しています。
一見すると、呼び方の違いに過ぎないように思えるかもしれません。しかし、どのような言葉で呼ぶかはその人がそのプランをどのようなものとして捉えるかに、静かに影響を与えます。本人が選んだ言葉で呼ばれることで「これは私の人生を整えるための、私のための計画である」という感覚、つまり主体性が保たれやすくなるのではないかと考えています。
また、このことは単に本人側の問題にとどまりません。看護師にとっても、その人がつけた名前で意識的に呼び続けるという行為は、自分自身の関わり方を問い直す機会になります。私たちは、ともすると無意識のうちに、対象者を「支援する側」「される側」として捉え、管理的・指示的な視点に傾いてしまうことがあります。
しかし、その人の言葉でその人のプランを呼ぶという行為は、そうした関係性を一度立ち止まって見つめ直し、その人の人生に伴走する立場へと自分自身を引き戻す働きを持っているように感じています。
決して大きな技術ではありませんが、日々の関わりの中で積み重ねられていく、小さくも確かな実践の一つだと僕は捉えています。
最近の僕自身の実践では、プランの名前はあえて最後の方につけてもらうことが多くなっています。最初から名前を考えるのではなく、まずは「青(安定)」「黄(注意)」「赤(不調)」それぞれのフェーズにおけるピースを、対話の中で一つひとつ丁寧に出し合っていきます。
「毎朝、窓を開けると気持ちがいい」
「嫌なことがあった日は、お風呂に入ることが億劫になる」
「音楽が大好きだけど、本当にしんどい時はsyrup16gの曲しか聴けなくなる」
こうした言葉は、一見すると何気ない日常の描写のように見えるかもしれません。しかし、その一つひとつには、その人がこれまでどのように日々を過ごし、どのように揺らぎと向き合ってきたのかというプロセスが含まれています。僕はその言葉を急いで整理したり評価したりするのではなく「そうなんですね」と受け止めながら、少しずつ一緒に積み重ねていく時間を大切にしています。
そうしていくつもの言葉が並び、その人の輪郭がゆっくりと浮かび上がってきた頃に「さて、今のあなたを支えるためのこのプランにどんな名前をつけましょうか」と問いかけます。すると、不思議なことに、そこには驚くほど豊かな個性が立ち現れてきます。
ある人は、座右の銘や自分の目標をそのままタイトルに据えます。
「今日を大事にプラン」「一歩ずつプラン」「なせばなるプラン」「大学行くぞ〜プラン」
こういった言葉には、その人がこれからどのように生きていきたいのかという、静かな決意が滲みます。
またある人は、自分が大切にしている人や、憧れのアーティストの名前を冠します。
「猪木プラン」「ドラえもんプラン」「嵐プラン」「Here Comes The Sunプラン」
一見ユニークに思える名前の背後にも、その人にとっての支えや希望、あるいはこれまでの経験に根ざした深い「いきさつ」が必ず存在しています。
他にも、普段実際によく使う言葉を選ぶ人もいれば、好きな小説や歌詞などの一節を引用する人もいます。時には、何日か考え込んでからようやく納得のいく言葉が出てくることもあれば、ある日ぽつりと自然にこぼれるようにしっくり来る名前が生まれることもあります。
しかし、どんな選び方であってもその言葉は決して偶然に選ばれたものではありません。それまで重ねてきた対話や、その人が生きてきた時間、そして大切にしてきた価値観がゆっくりと凝縮され、一つの「名前」として立ち上がってくるのです。
僕はその瞬間に立ち会うたびに、クライシス・プランは単なる支援ツールではなくその人の人生の一部を伴走していく営みなのだとあらためて実感します。
プランの名前は、一度決めたら変えてはいけないものではありません。むしろ、その時々の本人の状態や大切にしたいテーマの変化に合わせて、何度でも変えていってよいものだと考えています。
人の状態や価値観は、日々の生活の中で揺らぎ続けています。だからこそ、その人を支えるはずの言葉が、いつの間にか今の自分に合わなくなってしまうこともあります。
以前はしっくりきていたはずの名前が、どこか遠く感じられたり、あるいは少し重たく感じられたりすることもあるでしょう。その違和感に気づくこと自体が、その人の変化のサインでもあるのだと思います。
例えば、かつては「入院しないプラン」という再発への不安や防御を軸にした名前だったものが、生活が安定し社会復帰への意欲が高まる中で「楽しく働くプラン」へと変わっていくことがあります。その変化は、単なる言葉の置き換えではなく、その人の視線が「守ること」から「広げていくこと」へと移っていることを示しているようにも感じられます。
そして、本人が「今の自分にはこの言葉が一番しっくりくる」と心から納得できるタイトルに出会えたとき、そのプランは単なる紙の上の計画ではなく、その人の中に息づくものへと変わっていきます。
だからこそ私たちは、その人がその人自身の言葉に出会えるように、急がず、ときに立ち止まりながら、伴走し続けることが求められます。どんな言葉がしっくりくるのか、なぜその言葉を選んだのか。その問いを大切にしながら、ともに考え続けていくこと。それこそが、クライシス・プランにおける私たちの役割の一つなのだと感じています。
また、クライシス・プランは、利用者(患者)さんだけのものではありません。看護師である私たち自身もまた、揺らぎや不調を抱えながら生きる一人の人間です。だからこそ、私たち自身が自分の状態に目を向け、不調を前提とし、自らのプランに名前をつけてみる。その等身大の姿勢こそが、利用者(患者)さんとの関係性を、より確かなものにしていくのではないでしょうか。
言葉には、そこに至るまでのプロセスがあります。今、この記事を読んでいる皆さんの手元にまだ何も書き込まれていない書面があるとしたら、そこにどんな名前を書き込むでしょうか。立派な言葉である必要も前向きである必要もなく、ただ「今の自分に合っている」と感じられるものであれば、それで十分なのだと思います。そのときの状態やいま大切にしたいことによって、きっと選ぶ言葉は変わってくるはずです。
クライシス・プランの本質とは、その言葉に込められた意味や背景を、本人と支援者がともに確かめ合いながら育てていくプロセスにあるのだと、僕は信じています。