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【CEOエッセイ】Vol.034 涙活 〜僕が泣きたい時に観る映画の話。〜

2025.08.20 HEROさんシリーズくるみの社長エッセイ

こんにちは。株式会社Make Careの代表取締役CEOであり、訪問看護ステーションくるみでマーケティングを担当している石森寛隆です。XではHEROと名乗っていますので、もしよろしければフォローください。

今日は「涙活」というテーマで、僕が泣きたい時に観る映画について書こうと思います。忙しい日々の中で、自分の感情をわざわざ揺らしに行くなんて、ちょっと変に思えるかもしれません。でも、心を動かすって意識しないとどんどん鈍くなっていくものだと思うんです。泣くって、怒るよりもずっと心を浄化してくれる行為で、しんどい時ほど「ちゃんと泣く時間」が必要になる。僕自身、仕事や人生の節目で、ふとこの映画たちに手を伸ばしてきました。
今回はそんな「泣くための映画」を10本ピックアップ。思い出補正も含めて、ただ泣くだけじゃない、自分の心に残った理由も一緒に書いてみます。感情を取り戻す時間として、もし今泣きたいなら、このリストがそのきっかけになれば嬉しいです。

大阪市、寝屋川市、守口市、
門真市、大東市、枚方市全域対象

“精神科に特化”した
訪問看護ステーション
「くるみ」

06-6105-1756 06-6105-1756

平日・土曜・祝日 9:00〜18:00 
【日曜・お盆・年末年始休み】

フリーウィリー

この映画は子どもの頃から何度も観てきたけど、毎回泣き方が違うんだよね。荒れて心を閉ざしていたジェシーが、シャチのウィリーと出会って少しずつ変わっていく。その変化が嘘っぽくなくて、手探りで信頼を積み上げていく感じがたまらない。人間同士なら言葉で何とかなるけど、ウィリーには通じない。だからこそ、視線や仕草や間合いで通じ合えた一瞬が、こっちの涙腺を容赦なく直撃する。二人が隣り合って静かに同じ方向を見ているだけのシーンでさえ、「必要としてる」が伝わってきて、胸の奥がじわっと温かくなる。ラスト、ウィリーが海に向かって跳ぶ瞬間は毎回だめ。別れの寂しさと、自由を願う嬉しさが一気に押し寄せて、涙が勝手に流れる。悲しいのに笑顔になる、矛盾した涙。観終わったあと、無性に海を見たくなるし、「誰かの自由を本気で祈る」ってこういうことだよな、と静かに確信する一本。それにしても、あの音楽が流れるだけで条件反射みたいに胸が熱くなる。大人になってから観直すと、保護と搾取の境界とか、自由の重さとか、子どもの頃は拾えなかった問いがいくつも潜んでいるのに気づく。それでも結論はいつも同じで、「好きなものを好きでいさせてあげたい」という願いに戻ってくる。ジェシーの手のひらが水面を叩く音、ウィリーが応えるように近づいてくる気配。画面の外にいる自分の体温まで上がっていくのを感じる。泣いて、笑って、最後は深呼吸。何度でも、ここで泣き直したいと思える。

パッチ・アダムス

ロビン・ウィリアムズの笑顔は、それ自体が処方箋みたいに効く。医療の現場に“笑い”を持ち込むなんて、正直めちゃくちゃ難しい。緊張と絶望が当たり前の場所で、冗談は簡単に誤解されるし、時に反感も買う。けどパッチは、一人ひとりと向き合って、相手の尊厳ごと丸ごと抱きしめるみたいに笑わせる。明るいだけの道化じゃない。痛みを知ってる人の笑顔だから、こっちの涙腺も緩む。理不尽な出来事で心が折れそうになっても、彼は“笑い”を手放さない。あの執念に、何度も救われた。泣きポイントは派手な演出じゃなく、病室の小さなやり取りに潜んでいる。「あなたはここにいていい」と伝わる瞬間、静かに崩れる。観終わったあと、誰か一人の一日を少しでも明るくしたいと、自然と思えてくる。泣いた先に優しさが残る、そんな映画。赤い鼻をつけてふざけるだけの人じゃない。ドアをノックして入る前の一呼吸、相手の目線まで腰を落とす所作、名前を呼ぶ声の柔らかさ——そういう細部に、相手を“人”として扱う矜持が宿っている。白衣の権威に甘えず、同じ高さで向き合う勇気。ときに制度に嫌われても、目の前の一人のために選ぶ姿勢。医療の現場に関わる人間としても、ただの観客としても、何度観ても背筋が伸びる。笑わせることは軽くない。軽やかに見せるための重たい努力がある。その重さを抱えたまま微笑むから、こちらは泣く。終盤、彼が立つ場所を選び直す瞬間、静かに拳を握る。涙のあとに、まっすぐな勇気だけが残る。

マイ・フレンド・フォーエバー

90年代の空気って、それだけで少し切ない。この映画は、エイズを患う少年と、隣に越してきた少年の友情を描くんだけど、「友達だから」という理由だけで全力で動ける真っ直ぐさが眩しい。期限があると知りながら遊び、怒り、笑い、計画を立てる。どの瞬間も薄く光っていて、観ながら胸が苦しくなる。大人の理屈や偏見なんて、二人にとっては背景でしかない。ラストに近づくほど、約束という言葉が重くなる。守りたいのに時間が追い越していく感じが、涙腺を直撃する。観終わったあと、子どもの頃に一緒にバカやった友達の顔が浮かんで、連絡したくなる。悲しみだけじゃなく、その時間が確かにあったことへの感謝が湧く。失う痛みと、出会えた嬉しさが同時に残る、忘れられない一本。自転車のペダルを全力で踏む足、地図に丸を付ける指、川沿いの風の匂い。二人の“冒険”は小さくて、でも当人たちには世界一大きい。彼らが作戦会議をしているだけの場面でさえ、時間が貴重品みたいに輝く。大人になった自分はつい最短距離を探すけど、彼らは寄り道こそが目的地だと知っている。だからこそ、終盤の選択は痛いのに美しい。子どもの覚悟は、言葉が足りないぶん真っ直ぐだ。エンドロールが流れるころ、携帯を握って、あの頃の友達の名前を検索してしまう。また会えるうちに会っておこう、って素直に思える。泣き疲れたのに、心は不思議と元気になっている。

世界の中心で、愛をさけぶ

あの雨のシーン、何度思い出しても胸のど真ん中を撃ち抜かれる。高校時代の恋人を失った“あの頃”と、うまく生きられない“いま”が、静かに行き来する。その間にこぼれ落ちる言葉にならないものが、多すぎる。病室の会話は派手さがないぶん、現実味があって、息をするみたいに心に入り込んでくる。恋愛は光だけじゃない、影も一緒に抱えるものだと、この映画は容赦なく教えてくる。観終わった夜は、昔の誰かに連絡したくなるけど、結局しない。その“しない”を選ぶ自分に、また静かな波が来る。泣くと少し軽くなるのに、完全には軽くならない。傷跡がかすかに疼き続ける。その疼きごと、丁寧に抱えることをこの映画に教わった。カセットテープに吹き込まれた声、病室の白、制服のしわ、雨粒の大きさ。記憶って、結局は質感で思い出すんだと知らされる。取り返したい会話はいつも一つだけじゃなくて、どれも些細で、どれも大切だ。大人になってから観ると、過去に手を伸ばす行為そのものが、すでに優しさなんだと分かる。届かないなら届かないままで、でも確かに抱きしめ直すことはできる。画面の湿度が上がるほど、胸の奥の乾いたところに水が染みていく。泣き終わると少し眠くなるけど、眠りたくなくて、雨音だけを聞いていたくなる。失くしたものと、まだ持っているものの境界線が、静かに少しだけ動く。そんな夜をくれる映画。

火垂るの墓

この作品は、観る前から身構える。冒頭で結末を告げられているのに、節子の笑顔や何気ない一言で毎回崩れる。兄としてできることが少なすぎる現実と、戦争の理不尽さが、画面の外側にいる自分まで押し潰してくる。特別な“泣かせ”はない。日常の小さな楽しみや、短い安堵の時間が、次の瞬間には奪われる。その反復が痛い。トマトの赤、缶の音、火の色。些細な細部が全部、刃になる。観終わったあとは、しばらく何も手につかない。なのに、時間が経つとまた観たくなる。忘れたくないからだと思う。泣くことが供養に近い日があって、これはそんな映画。戦争を数字でなく顔で記憶するための、僕にとっての儀式。蛍が舞う夜の光はきれいなのに、翌朝の暗さが残酷すぎる。ドロップ缶の蓋が鳴る小さな音、空腹をごまかすための想像のごはん、駅の片隅の冷たさ。戦争は“遠くの出来事”じゃなく、音と匂いで迫ってくるものなんだと体で理解させられる。観終わったあとは水を一杯ゆっくり飲む。米をといで炊飯器のスイッチを押す、そんな当たり前の動作が、急に尊い。泣くことは楽ではないけれど、泣かないで通り過ぎることのほうが、きっと怖い。忘れないために泣く、という日が確かにある。私にとってこの映画は、その日のための一本。

そして、出来れば岡田斗司夫の解説も是非、観て欲しい。違った角度で火垂るの墓の作品性を感じることが出来るはずだと思う。

リメンバー・ミー

カラフルで楽しいのに、テーマは“忘れられること”という残酷さ。このギャップがまず泣ける。ミゲルが自分の夢と家族の歴史の間で揺れながら、一歩ずつ誰かの記憶へ踏み込んでいく。その道のりが優しくて、痛い。終盤の「リメンバー・ミー」は、もう反則。歌う声に、思い出の温度が乗って、涙が勝手に出てくる。悲しいのに、抱きしめられているみたいに温かい。映画を観終わると、仏壇の写真やアルバムを開きたくなるし、実家に電話したくなる。自分の背中には、知らないうちにたくさんの手が当てられていたんだと気づく。泣いたあとは、ちゃんと前を向ける。色で包み、歌で手をつなぎ、記憶で家族をもう一度紹介してくれる、優しい魔法の一本。マリーゴールドの花びらが橋になって、あちらとこちらが穏やかにつながる。祭壇の写真が一枚足りないだけで、世界からこぼれてしまうかもしれないという怖さ。忘れない、って行為は誰にとっても重労働なんだと気づく。だからこそ、歌にして繰り返す。口ずさめば、思い出は少し軽くなる。あの場面で涙があふれるのは、悲しいからだけじゃなくて、ちゃんと会えた安堵があるからだと思う。エンドロールのあと、家族の名前を心の中でゆっくり呼ぶ。順番を間違えないように、何度も確認する。そうやって確かめ直す夜は、少しだけ世界がやさしい。色彩で手を取り合うことができる、と教えてくれる大切な一本。


グリーンマイル

刑務所が舞台なのに、これほど柔らかい光で満たされた映画は珍しい。ジョン・コーフィの大きさは、体格じゃなくて心の広さだとすぐに分かる。彼が触れたものは、壊れていたはずなのに、なぜか少しだけ整ってしまう。看守たちの揺らぎと誠実さ、そして無力感。正しさが勝てない瞬間が、こんなにも静かに描かれるのかと何度も息を呑む。最期に向かう道のりで、言葉が少なくなるほど涙が増えていく。理不尽は消えないけれど、人の優しさは確かに残る。その残り香みたいなものが、観終わったあとも長くまとわりつく。立ち上がれない、ではなく、立ち上がりたくない。しばらく座って、余韻を撫でていたい、そんな一本。ちいさな鼠が通路を走るだけで、世界が一瞬やわらぐ。その名を呼ぶ声に、看守も囚人も同じ人間の顔になる。電気椅子の重さ、規則の冷たさ、祈りの迷い。正義の線はいつも真っ直ぐじゃない。ジョンが見せる奇跡は派手じゃないのに、触れられた場所から静かに修復が始まる。だからこそ、別れはひどく静かで、耐え難い。涙が出るというより、胸の奥で何かが崩れて、ゆっくり液体になる。観終わったあと、明かりをつけたまましばらく座っていたい。誰も責められない夜があっていい、と自分に言い聞かせる。優しさは弱さじゃない、と背中を押してくれる一本。

タイタニック

王道すぎるって分かってても、毎回やられる。ラストの別れはもちろんだけど、甲板で交わす何気ない会話や、視線が重なるだけの瞬間のほうが刺さる日もある。あの音楽が鳴ると、感情が勝手に前へ出ていく。豪華絢爛な世界のきらめきと、海の冷たさの対比がえぐい。永遠を誓う言葉よりも、あの短い時間に交わされた小さな約束のほうが、なぜか強く残る。船が傾き始めてからの静かな混乱、手が離れる一瞬の無音。そこで涙腺が崩壊する。観終わった翌日にまた観たくなる中毒性は、たぶん“喪失を美しく記憶したい”という人間の弱さと向き合えるから。降参、って素直に言いたくなる一本。デッキの風、ドレスの布の重さ、炭で描かれる線の震え。あの二人が共有した時間は短いのに、濃度が高すぎる。船底のダンスの熱、食堂の銀器の音、甲板の夜気。氷山の軋む音がした瞬間から、世界が別の速度で進み始める。救命ボートの数、階段の傾き、手すりに残る指の跡——細部が全部、別れの予告状に見えてくる。最後の板切れの上での息遣いまで覚えてしまっていて、そこに至る前から涙が出る。エンドロールのあと、海の深さを想像して深呼吸する。喪失を美しく記憶することは逃避じゃない、とこの映画は教えてくれる。悲しみを丁寧に包むためのリボンみたいな一本。

永遠の0

戦争映画って身構えて観るけど、これは家族の話として刺さる。主人公の祖父が“臆病者”と呼ばれた理由が、物語の奥へ進むほど別の輪郭を持ちはじめる。臆病は弱さじゃなく、「生きて帰る」という強い意志だった。誰かを守るために、生き延びることを選ぶ勇気。戦場でそれを貫く難しさに、こっちの胸が詰まる。クライマックス、彼が選んだ行動の真意が明かされた瞬間、言い訳の余地なく涙が溢れた。派手な悲劇に飲まれるんじゃなく、静かに底から満ちてくる涙。観終わったあと、すぐに言葉を探さないほうがいい映画だと思う。沈黙の時間が、想いをちゃんと形にしてくれる。守るために生きる、という強さが長く残る一本。彼が“臆病”と呼ばれた理由を、若い自分は誤解していたと思う。無謀と勇敢は似て非なるもの。家族の元へ帰るために、命を無駄にしないという信念は、戦場ではときに卑怯に見える。でも本当は、その選択こそが一番むずかしい。仲間を思い、自分を律し、帰る場所を守る覚悟。取材で少しずつ集まる証言が、同じ人物を全然違う角度から照らす。光と影がゆっくり組み合わさって、最後に“人”の輪郭になる。真相が置かれたあの場面で、涙は止まらなかった。泣きながら、胸の中に静かな炎が灯る感じ。観終わったあと、沈黙を選ぶのが正解の映画ってある。言葉が追いつくまで、しばらく抱き締めていたい一本。

半落ち

静かに崩される映画。警察官が自らの罪を告白し、少しずつ真相が見えていく。その中心にあるのは、病気の妻への愛で、説明すればするほど軽くなる種類のものじゃない。だからこの物語は、余白で語る。音が小さくなり、言葉が減るほど、胸の奥の方がざわつく。ラストの近く、声を荒げるでもなく、ただ事実が置かれたとき、こらえていたものが静かに溢れる。大声で泣く映画じゃない。気づくと頬が濡れていて、自分でも驚くタイプ。観終わったあと、早く立ち上がろうとしないほうがいい。沈むのを許して、戻ってくるのを待つ。そうすると、この映画が教えてくれた“赦しの形”が、ゆっくり体に馴染んでくる。供述の“穴”を埋める物語なのに、埋めれば埋めるほど、言葉にならない部分が残る。なぜ、という問いに、正解は一つじゃないのだと突きつけられる。病気の進行、介護の現実、夫婦の沈黙。説明した瞬間に軽くなる種類の愛が、この世界に確かに存在する。だからこの映画は、余白で語る。机の端に置かれたカップ、閉じられないままのファイル、短く終わる電話。音の少なさが、感情の厚みを逆に増す。終盤、怒鳴り合いではなく静かな確認で真実が置かれたとき、こらえていた涙が自然に溢れた。赦すって、忘れることじゃない。抱えたまま前に進むことだと、ゆっくり理解させてくれる一本。

泣く映画って、ただ悲しいだけじゃなくて、自分の中の何かを揺さぶってくれる作品だと思います。観ている最中は登場人物の感情に寄り添って泣いているのに、終わったあと振り返ると、自分自身の記憶や経験にリンクしていることが多い。大事な人を思い出したり、失ったものを悔やんだり、逆に今そばにいる人をもっと大事にしようと思えたり。涙は一瞬で乾くけれど、その余韻は日常に持ち帰ることができる。今回挙げた10本は、僕にとってその「余韻」が特別長く残った作品たちです。泣きたいときに観るのもいいし、泣ける気分じゃないときに観て「思ったより泣いてしまった」という経験もまた良い。感情を動かす習慣を持っていると、人生の解像度が上がる気がします。あなたにとっての涙活リストも、ぜひ作ってみてください。

映画に関するコラムでは過去に
【CEOエッセイ】Vol.020 映画に教わった人生のこと。僕の好きな映画10選
シンプルに大好きな映画を10本集めたのも書いています。
パッチアダムス、リメンバーミー、マイフレンドフォーエバーとかは被ってますね。

是非、併せて読んでみてください。

この記事を書いた人

石森寛隆

株式会社 Make Care 代表取締役 CEO

石森 寛隆

Web プロデューサー / Web ディレクター / 起業家

ソフト・オン・デマンドでWeb事業責任者を務めた後、Web制作・アプリ開発会社を起業し10年経営。廃業・自己破産・生活保護を経験し、ザッパラス社長室で事業推進に携わる。その後、中野・濱𦚰とともに精神科訪問看護の事業に参画。2025年7月より株式会社Make CareのCEOとして訪問看護×テクノロジー×マーケティングの挑戦を続けている。

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