
看護師・中村がクライシス・プランの実践を軸に、看護のこと(時々それ以外も?)を自由に綴るエッセイ第10弾!
想像していなかった未来
「どうして精神科で働くようになったんですか?」と、ときどき聞かれることがあります。
いつも少しだけ、なんて答えれば良いだろうかと迷うのですが、結局、その質問のたびに僕は、「特に最初から精神科を希望していたわけではなくて、たまたまなんです」といった具合に答えてきました。
でも、きちんと振り返ってみると、その「たまたま」の中には、いろんな出来事があります。
看護学校を卒業したばかりの僕は、自分がこんなに長く精神科領域で仕事を続けていくことになるとは、まったく想像していませんでした。
大阪市、寝屋川市、守口市、 平日・土曜・祝日 9:00〜18:00 ※訪問は20時まで
門真市、大東市、枚方市全域対象“精神科に特化”した
訪問看護ステーション
「くるみ」
【日曜・お盆・年末年始休み】
対応させていただいております。
初めて働いた病院での時間
看護学校を卒業したあと、僕は函館市内の総合病院に就職し、神経内科に配属されました。
病院の朝は早く、街がまだ完全には目を覚ましていない時間に家を出ます。
人気の少ない道を歩きながら、僕は毎朝、「今日はちゃんとできるだろうか」と、歩みを進める靴と地面を見ながら考えていました。
その頃の僕は、先輩スタッフとなんだか上手にコミュニケーションが取れず、指示されたことを十分に理解できないことが多くありました。
何を優先したらいいのかわからない。焦って動くと失敗する。また注意される。呆れられる。
同期たちは少しずつ病棟に馴染んでいっているようでした。ナースステーションで自然に笑い、先輩たちと会話し、いつの間にか「病棟の一員」になっていきました。
僕だけが、いつまでもそこに入っていけませんでした。
ある日、休憩室の前を通った時、偶然、先輩スタッフたちが自分のことを話している声が聞こえました。
「新人の男の子、全然仕事できないね」
その時、自分が「できない側」の人間なのだということを、はじめて知りました。
働き始めるまで僕は、自分のことを、わりと器用な人間だと思っていました。
面倒な人間関係は昔から苦手でしたが、ここまで人とうまく噛み合わないことはありませんでした。
だから最初は、「勉強不足なんだ」と思うことにしました。そう思っている方が、少し楽だったのです。
僕は分厚い神経内科看護の本を数冊買い込み、夜遅くまで勉強するようになりました。
知識さえ増えれば、きっと仕事もうまくいく。そう信じていました。
でも、状況は一向に変わりませんでした。
知識が増えても、病棟の時間の流れについていくことは僕には厳しかったのです。
必死にしがみつこうとしたけれど、振り落とされる。
看護師という仕事は、同時進行でいくつものことを考えながら動き続ける仕事でした。
僕の頭の中では、「しなければいけないこと」がいつも渋滞して衝突して、スムーズに交通していなかったように思います。
夏の終わり
ある日、先輩スタッフから、「ちゃんとメモを取って」と注意されました。
「メモを取らないから覚えられないんだよ」。
僕は、昔から人の話を聞きながら何かを書くことがとても苦手でした。
でも、先輩にそう言われて、メモを取れるようにならなければいけないのだと思いました。
すると今度は、メモを取ることに集中しすぎて、話そのものが頭に入ってこなくなりました。
あぁ、みんなが「普通」にできていることが、自分にはどうしてもできないんだな、とこの時気付きました。
この頃の僕は、いつも苛立っていました。
職場に対してなのか、自分自身に対してなのか、今となってはよくわかりません。
今よりも若かった僕は、怒ることでしか、自分を守れなかったのかもしれません。
イライラしている間だけは、自分が全部悪いわけではないと思えました。
ある朝突然、僕は職場へ行くのをやめました。
起き上がろうとしても体が布団に沈んだままで、うまく動かすことができなくなったので、「やめなければならないな」と思いました。
その日はとてもよく晴れた日で、窓の外だけが、妙に明るかったのを覚えています。
それから数ヶ月、僕はほとんど何もしないまま過ごしていました。
昼過ぎまで眠って、起きても特にやることはなく、ぼんやりと天井を見ていました。
函館の短い夏が終わりかけていました。9月に入ると、風の匂いが少しだけ変わります。
まだ寒いわけではないのに、「ああ、もう夏は終わるんだな」とわかる、あの感じ。
「もう看護師として働くことはないんだろうな」。
そう考えていました。
音楽の大学を出ても何者にもなれなかった。
看護学校を出ても、また何者にもなれなかった。
僕の父は漁師でした。何十年もずっと漁師として働いています。
僕も実家に戻って漁師になるのかな、とぼんやり考えることもありました。
でも、それは何か強い意志があったわけではなく、「じゃあ、他に何があるんだろう」という、空っぽに近い感覚だった気がします。
そんなふうに過ごしていたある日、看護学校時代の恩師だった田中先生から突然電話がかかってきました。
「おう、今からちょっと学校来れるか?」
相変わらず、強い函館訛りでした。
僕は特に深く考えることもなく、反射的に「はい」と答えていました。
導かれるように
久しぶりに向かった学校は、少しだけ懐かしく見えました。
副学院長室に入ると、田中先生はひとりで座っていました。
先生は元日本精神科看護協会会長でしたが、在学中から、僕は先生に対して「偉い人」という印象をあまり持っていませんでした。
もちろん立場としてはすごい人なのだけれど、もっと別の、生身の迫力みたいなものが先に来る人というか。
「おめぇ、これからどうしようと思ってるんだ?」
田中先生は、僕の顔をまっすぐ見ながらそう言いました。
「実家戻って、漁師やるとか……」
圧倒されながら絞り出すようになんとかそう答えると、
「ほんとにそう思ってるのかなぁ?」
と、先生は僕ではない誰かに話しているように言いました。
この時の先生の鋭い目。
この日は快晴で、窓の外には夏の終わりの薄い光が広がっていて、まだ遠くで蝉が鳴いていました。
どれくらい沈黙が続いたのかは覚えていません。
けれど、決して気まずい沈黙ではなく、不思議と安心感のある静けさ。
すると田中先生は、
「話していいか?」
と、少し声の調子を変えました。
「おめぇ、精神科に興味ねぇか?」
そう続けたあと、僕の顔をじっと見ながら、
「俺はな、中村は精神科が向いてると思うんだよ」
と静かに、優しく、でもはっきりと言いました。
唐突に出てきた「精神科」という言葉。
精神科看護がどんなものなのか、よくわかりませんでした。
けれども、その時の僕は、何かを自分で考えたり、選んだりするだけのエネルギーが、あまり残っていなかったのだと思います。
だから僕は、ただ導かれるように「はい」と答えました。
すると田中先生は、その場でデスクの電話を取り、どこかへ電話をかけ始めました。
まるで、仲の良い隣近所に足りなくなった調味料を借りるときのような気軽さで。
電話を切ると、先生は当たり前みたいな顔で、こう言いました。
「〇〇病院の看護部長に言っといたから、今から行って面接してこい。一応スーツには着替えていけよ。履歴書は1時間もあればちゃちゃっと書けるだろ?」。
呆気に取られながらも、僕は、田中先生の言葉にそのまま身体を預けるように行動し、その日のうちに、まるで魔法のように、突然転職が決まったのです。
これが、僕が最初に精神科に勤めることが決まった日の出来事です。
あっという間の10年
精神科病棟で働き始めてからも、毎日は目まぐるしく過ぎていきました。
転職できたからといって、急に仕事ができるようになったわけではありません。
思うようにいかないことがたくさんありました。
「しんどいこと」の方が多かった気がします。
毎日をこなすだけで精一杯でした。
それでも僕は、今日までなんとか精神科での仕事を続けることができたのです。
今思うと、「普通」にできないことが多かったあの頃の感覚は、今の精神科看護の仕事の中で、何度も僕を助けてくれている気がします。
精神科で働くようになってから、同じ一日でも、人によって流れる時間はまったく違うのだということを、少しずつ知っていきました。
そして、支えになってくれる人がいることにも気づくことができました。
ずっと、いつか田中先生に会いに行かなければ、と思っていました。
でも、その頃の僕は、そこまで辿り着くだけの余裕がなく、その「いつか」はなかなかやってきませんでした。
その間に僕は函館を離れ、東京へ行き、そして関西へ移りました。
いつも、その日をどうにかやり過ごすことに必死だった気がします。
気がつくと、先生と副学院長室で話したあの日から、10年以上が経っていました。
先生との再会
先日、久しぶりに、函館で田中先生に会う機会がありました。
週末で賑わうカフェで久しぶりに会った先生は、あの頃とほとんど変わっていませんでした。
少し小さくなったようにも見えたけれど、目の鋭さと、纏っている迫力はあのまま。
僕はようやく、「あの時は本当にありがとうございました」と、ちゃんとお礼を伝えることができました。
でも、先生は、「そんなことはどうでもいいんだよ」と笑いました。
照れ隠しなどではなく、本当にそんなことはどうでもいいみたいに。
それから、
「おめぇ、まだ精神科で働いてんのか?」
と聞かれ、僕が「はい、精神科の訪問看護をやってます」と答えると、
「そうか。そうだったか。おめぇ、今も精神科で働いてんのか」
と、田中先生は目を細めてニヤニヤしながら、何度か小さくうなずいていました。
この日の函館も、気持ちよく晴れた日で、カフェの広い窓から明るい日差しが差し込んでいました。
田中先生は相変わらず、あの頃と変わらない強い函館訛りで、なんだかカフェには不釣り合いだな、とちょっと可笑しくなってしまいました。
僕はぼんやりと、先生は僕の何を見て「精神科に向いている」と言ったんだろう、と考えました。
そして、精神科で働くようになってから出会った人たちのことを、なんとなく思い浮かべていました。