
看護師・中村がクライシス・プランの実践を軸に、看護のこと(時々それ以外も?)を自由に綴るエッセイ第17弾!
尊敬する看護師に看護されたいとは限らない
皆さんは、「尊敬している看護師は?」と聞かれたら誰を思い浮かべますか?
僕にも、何人か「すごいな」と思う人がいます。
利用者さんとの関係性を丁寧に考え、言葉の一つひとつを大切にし、自分自身の看護について何度も問い直している、そんな人たち。
僕はそんな看護師さんたちの本を読んだり、話を聞いたり、実際に看護している場を見たりしながら、ずいぶん影響を受けてきました。
ところが、ときどき変なことを考えてしまいます。
「じゃあ、自分がもしも利用者の立場になったとき、この人から看護を受けたいだろうか?」
そう考えると、必ずしも「はい」とはならない自分がいます(失礼な話ではありますが…)
どれだけ優れた理論を語る人であっても、どれだけ丁寧な実践をしている人であっても、自分が訪問看護を利用するとしたら「この人にはあまり来てほしくないかも」と感じることがあります。
この感覚について考えることは、精神科看護の実践において案外大切なのではないのかなと感じます。
大阪市、寝屋川市、守口市、
門真市、大東市、枚方市、吹田市、尼崎市全域対象
“精神科に特化”した
訪問看護ステーション
「くるみ」
平日・土曜・祝日 9:00〜18:00
【日曜・お盆・年末年始休み】
※訪問は20時まで
対応させていただいております。
そんなに深く、自分のことを見ないでほしい
精神科看護では、「その人を理解する」ということがとても大切にされています。
いま何を感じているのか。
その言葉が出てきた背景はなにか。
その行動にはどのような経緯があるのか。
その人にとって大切なことは何なのか。
もちろん僕自身も、看護師としてそういうことを考えながら人と関わっています。
でも、自分が利用者側に座ったところを想像すると、「そんなに深く僕のことを見ないでほしい」という感覚があります。
毎週決まった時間に看護師さんが自宅にやってきて、「この一週間はどうでしたか」と聞かれ、そして毎回、自分のこころのことや最近困っていることについて真面目に話す。
……正直、かなり面倒くさいなと思ってしまいます。
今日は別に自分の内面について話したくない、昨日買ったCDとかレコードの話だけして帰ってほしい日もあるでしょうし、「特に何もないです」で終わらせたい日だってあると思います。
場合によっては、「今日はそもそも家に来てほしくない」と思うかもしれません。
看護師として勧めているのに、自分ならやりたくない
僕は看護師として、普段クライシス・プランの実践についてかなり熱心に話しています。
本人と支援者が一緒に、その人の状態や対処方法、周囲にしてほしいことなどを整理していくことには、とても大きな意味があると考えています。
ところが、自分が利用者になったところをイメージすると、「いちいち紙に書くのダルいよな」と感じますし、しかも、自分の状態や対処方法について書いたものを支援者同士で共有すると言われたら、「いや、それはちょっとマジで嫌だ」と思う可能性がかなり高いと思うのです。
つまり、専門家から見れば丁寧で理論的にもよく考えられていて本人のことを深く理解しようとしている支援であっても、それを受ける本人が心地良いとは限らないということです。
理解されることがいつも嬉しいわけではありませんし、見守られることがいつも安心につながるわけでもないと思います。
関心を向けられることそのものが、負担になることだってあるのだと思います。
「この人なら来てもいい」と思える人とは?
では、自分が利用者だったとしたら、どんな看護師なら家に来てもらってもいいと思うのでしょうか。
不思議なことにぱっと僕の頭に浮かぶのは、「ものすごく優秀な看護師」ではなく、その人の弱さが垣間見える人です。
もちろん、支援者が自分の苦労話を延々とするという意味ではありませんし、「私も同じ経験をしたから、あなたの気持ちはよく分かります!」などと自分の経験や弱さを武器のようにして距離を縮めてくる人なんかはすぐ訪問拒否すると思います。
つまり、「この人もいつも正しいわけではないんだろうな」「この人にも、苦手なことがあるんだろうな」「この人も、仕事に行きたくない朝くらいあるんだろうな」みたいなことが、なんとなく伝わってくる人。
完璧な支援者としてそこにいるのではなく、自分と同じように揺れたり、迷ったり、間違えたりする人間なのだということが、いい塩梅で見える人。
僕は、そんな人ならちょっと安心できる気がします。
理解する人と、理解される人
精神科の支援では、ときどき支援者と利用者の間に不思議な非対称性が生まれます。
一方は「理解する人」で、もう一方は「理解される人」。
一方は質問する人で、もう一方は自分について話す人。
一方は記録を書く人で、もう一方は記録に書かれる人。
もちろん、そこには役割の違いがありますが、その役割があまりに強くなりすぎると、権威勾配が大きくなってしまいます。
だからこそ、ときどき支援者側にも「ただの人間」である部分が見えたほうがいいのかもしれません。
その人について知ろうとする力とあえてそれ以上近づかない力、その両方がある人を僕は信用するのかもしれません。
僕はこれからもときどき利用者側に座った自分を想像してみたいと思います。
そしてできることなら、誰かにも「中村なら、まぁ訪問に来てもいいかな」と考えてもらえるような看護師でありたいと、そう感じます。